誕生の背景

「DENSHIN」誕生の背景

伝えることを諦めれば、
大切なものまで諦めることになる。


「DENSHIN」が生まれるきっかけは、代表の尾中が4歳の頃にまでさかのぼります。尾中は日本生まれ日本育ちの日本人ですが、日本語をほとんど話せませんでした。なぜなら、両親が聴覚障害者だったからです。家庭内では手話で会話をするため、自然に習得できる日本語が限られていました。保育園に入ると、周囲とのコミュニケーションもうまく図れず、友だちの輪に入れないまま過ごすことに。母が迎えに来るとひとりぼっちの寂しさから解放されて泣きついてしまう。そんな日々が続いていったのです。

ある日、保育園で遠足へ行くことになりました。相変わらず一人だけつまらなそうに山道を歩いていると、その様子を察してか力くんという男の子が山のなかから採ってきた木苺をくれました。力くんは木苺を食べるところを見せてくれて、僕も同じように食べてみます。すると、力くんは「おいしいね!!」と大きい声で言いました。僕も「おいしいね!!」と大きい声で返しました。

遠足の帰り道は、力くんと手をつないで保育園へ。いつものように迎えに来てくれていた母は、僕が初めて泣かずに家へ帰ったことにとても驚いていました。そこで僕は、遠足で友だちと木苺を食べた話を伝えることにしたのです。

ただ、まだ幼かった僕は「木苺」の手話も知らず、「きいちご」と文字で書くこともできませんでした。「木苺」のツブツブや大きさ、食べかた、生えている場所などを身振り手振りで必死に表現しましたが、どうしても伝えることができません。それでも、母も僕もやめようとはしませんでした。ここで諦めれば、大切ななにかを諦めることになってしまう。そんな気がしていたのです。

いつのまにか日が暮れて、父が帰ってきていました。悔し涙を流しながら僕と向きあいつづける母と、その顔を見つめながら体をあちこちへ必死に動かしつづける僕。父は、その姿をじっと眺めると、母と僕を車に乗せて遠足で登った山へと再び向かいました。そして、家族三人で夜の山道を手探りで進み、ついに僕は、薄暗い茂みのなかから木苺を見つけることができたのです。嬉しさのあまり、手を目一杯に伸ばして木苺を空にかざすと、父と母も嬉しそうに駆けよってきて、思いきり抱きあげてくれました。そのとき、少し高いところから見えた景色が、僕は今でも忘れられません。

コミュニケーションスキルではなく、
伝わるまで諦めないマインドやスタミナを鍛える

大人になった僕は、株式会社サイレントボイスを設立することになりました。これまでの経験を通して「聴覚障害者はもっと社会で活躍できる」との確信を抱き、「音なき声」を社会の価値として届ける行動を起こしたのです。

ただ、創業当初から半数ずつ在籍していた健聴者(耳が聞こえる)とDEAF(聴覚障害者)のメンバー同士で感情のすれ違いがたびたび起きてしまっていました。恥ずかしながら、社内のコミュニケーションが崩壊しているといっても過言ではない状況に陥っていたのです。

その問題を前にして抱えた自分の頭のなかに浮かんだものこそが、あの木苺でした。「伝わるまで諦めないことの大切さ」をメンバーたちにも知ってほしい。その想いで生まれたのが「DENSHIN」の前身となる社内改革プログラムです。コミュニケーションスキルよりも深いところにある「伝えようとする姿勢(マインド)」や「伝わるまで諦めない忍耐力(スタミナ)」を学ぶことで、メンバーたちの関係性が勢いよく前向きなものに変わっていく姿を目の当たりにしました。

そして、2014年、特にコミュニケーション上の課題が大きなリスクとして顕在化している「企業」をターゲットに据えた研修プログラムに姿を変えて「DIVE」が誕生。その後、2017年8月にリニューアルされ、「DENSHIN」として生まれ変わりました。